(ヨハネ4:43-54)
ヨハネ書から2番目のしるしを学びましょう。
初めのしるしは華やかな婚礼の場が舞台でした。
一転して2回目は王室の役人の子どもが重病になり、死にかかっているとい
う深刻な場面でありました。役人はイエスのうわさを聞き、イエスのもとに大急ぎで駆けつけました。
ヨハネ書では、死にかかった息子のことより、役人自身がみるみる変えられていく様子が生き生きと描かれています。
・最初の段階では、イエスを預言者(44)と見て、もっぱら奇蹟・しるしを求めていま(47)。
・次の段階ではイエスの非難めいた言葉にもめげず、謙虚に、ひたすら癒やしを求めています(49)。
・最後の段階になると「主よ」と呼び、イエスの言われた言葉を信じて帰りました(50)。
その結果、家族も同時に信じ、救われたのです(53)。
この役人はイエスの前では、何の不思議もしるしも見ることはできませんでした。
「あなたの息子は生きる」というイエスの言葉を信じたのです。
翌日、家に帰る途中、しもべたちから嬉しい報告を聞いて、イエスが「あなたの息子は生きる」と言われたと同時刻に、息子の熱が下がったことを知りました。
カナとカファルナウムとは30キロも離れていました。そんな物理的距離を超えて、主の言葉の癒やしがなされたのです。これが二番目のしるしでした。
主イエスは、
しるしを見て信じる信仰は信用しない
と言われました(ヨハネ2:23-24)。
いやむしろ「しるしだけを求める人々の信仰」にうんざりされていたのです。
なぜなら彼らはしるしだけを求め、何が神の御心であるかを求めようとしなかったからです。
私たちも、ともすればしるしを求める傾向がないでしょうか?
しるしを見ずして信じる信仰、イエスのお言葉を信じる信仰に変えられていきたいものです。
(2/14説教より)
聖書の中には、どうしても理解できない御言葉(みことば)がいくつもあります。
「・・・わたしは、キリストと共に十字架につけられています。生きているのは、
もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです」
(ガラテヤ2:19b-20a)
この言葉は、私にとって理解に苦しんだ・・・苦しんだことを鮮明に覚えている御言葉です。なんど読んでも、なんど聞いても、なんど調べても、なんとなくわかったような気がしたのですが、やはりわからないという経験をしてきました。
・・・私は十字架につけられたことなどない。
なぜ生きているのに、生きていないというのでしょうか?
どうしてキリストが私のうちにあることが分かるのでしょうか?
昔、ある先生から「御言葉を理解できない三つの理由」を聞き、腑に落ちたことを覚えています。
1.私達は本腰を入れて、真剣に、御言葉の意味を求めていないから
2.私達の罪が御言葉の真の理解を妨げているから
3.御言葉の真の意味がりかいできるには「時」(コヘレト3:1)が必要だから
です。
次に「なぜ私はキリストと共に十字架につけられて・・・死んだ」というのでしょうか?
主は「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である」と言われました。
私たちは主と一つ、一体であります。
その主イエスが私たちに代わって十字架で死んでくださったのです。
2000年前の時空を超えた出来事です。これを進行的に受け止めるのです。
次に「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内におられる」
とは?
キリストは死者の中から復活されました。私たちも罪・古い自我に対して死に、キリストと共に復活し、いまや神に対して生きているのです。
このようにキリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きていることにもなるのです。
私たちは主にあって、霊的にいきているのです。
(1月31日説教より)
かつてパウロのガラテヤ地方の伝道は成功し、町に教会が建ち、多くの人が救いに導かれました。
パウロがガラテヤを離れたのち、ユダヤ人教師たちがやって来て「異邦人は律法(ここでは割礼や食物規定)を守らなくてはキリスト者にはなれない」と主張しました。
その結果、ガラテヤの人々はパウロの福音とは異なる「ほかの福音」を受け入れていました。
パウロはガラテヤの諸教会に宛てて「私はあきれ果てています」と憤りと失望の思いを伝えたのです。
・「割礼」とは?
ユダヤ教に入信する時に行われる儀式でした。それはユダヤの国民生活にとっては必要でしたが、それはキリストの福音の一部ではなく、救いとは何の関係もないことを聖書は説明します。
「人は(異邦人でも)イエス・キリストを信じる信仰によって義と認められる」
とパウロは力説しました。
・「義と認められる」とは?
その人の罪を赦(ゆる)すだけでなく、神の前で正しいものとされる、神との関係が正しくなるということです。
神の前で義と認められるための条件はイエス・キリストへの単純な信仰のみ
です。
今日、私たち自身にも問い直したいと思います。
現代においても純粋な福音から信仰をずらしていこうという働きがあります。
私たちはパウロのいうキリストの福音を「喜ばしきおとずれ」として受け取っているでしょうか?
私たちは本当に福音に生きているでしょうか?
私たちの罪のためにキリストが十字架で死んでくださった、私たちを罪の束縛から開放してくださった。キリストは3日目によみがえられた・・・と心から信じて、あるいは体験しているでしょうか?
(1月24日説教より)
主イエス・キリストに呼び出されるとはどういうことでしょうか?
3つのことをお話しいたします。
① 充実した人生への招き
「私たちの心には神でなければ満たすことの出来ない空洞がある」
哲学者のパスカルやアウグスチヌスも同様のことを言っています。
私たちはその心の空洞を満たすべく、色々なものを求めます。しかし、満たされない。
その空洞に神様を迎えて、初めて心が満たされることを経験するのです。
②使命への招き
「人間をとる漁師にしよう」
と、イエス・キリストは後に弟子となるペトロやヨハネを招かれました。
レビの場合にも、同様の使命を与えるために彼を招かれました。
神様はみなさんお一人お一人にも同様に「新しい使命を与えたい」と願って招かれたのです。
③使命共同体への招き
主イエス・キリスト招かれたお互いは、一人ではありません。
共に生きるために招かれたのです。
はじめに主イエス・キリストに招かれた時には夢にも思わなかったのですが、弟子たちはやがて建てられる教会の土台、または柱となるために招かれたのです。
最後に12弟子の選任から、彼らをキリストが招かれた3つの目的をもう一度確認しておきましょう。
①彼らを自分んおそばに置くため(礼拝を中心とし、主イエス・キリストとの交わりを持つこと)
②宣教(伝道)
③悪霊を追い出す機能を持たせる(この世への奉仕をすること)
*原語で「コイノニア」「ケリュグマ」「ディアコニア」といいます。
私たちも主イエス・キリストに選ばれて、召されたお互いであることを再確認しましょう。
そして12弟子たちのように、やがてひとりひとりが小キリストとなって、主に用いられる者へと変えられていることを信じましょう。
(2021年1月17日 礼拝説教より)
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2020年5月24日(日)「人生における最優先の事柄」(マタイ6:25‐34)
あまりに有名な、親しみのある聖書個所です。
ここでのテーマは『思い悩むな』です。この短い章節では4回も「思い悩むな」という言葉が使われているのが特徴です。当時であれ、現代であれ、思い悩むことは人の常です。しかしここで問題にしているのは、思い悩むことは性格上のことではなく、信仰と深い関わりがあるからです。そもそも思い悩むことは、神様よりもこの世的なものを恐れるということであり、それは真の神様に対する不信仰につながるからです。
ペトロは言いました。「思い煩いは、何もかも神にお任せしなさい。神が、あなたがたのことを心にかけていてくださるからです。」(Ⅰペト5:7)。
またパウロは「どんな事でも、思い煩うのは止めなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いを捧げ、求めているものを神に打ち明けなさい。」(フィリピ4:6-7)と断言します。
これに対してイエス様は、なんと言われたのでしょうか。思い悩みから解放する三つのヒントを学びます。第一に、大きな信仰を持つこと。イエスは弟子たちを「信仰の薄い者たちよ」(30)と叱咤されました。思い悩むことは信仰が不足し、信仰が小さいからです。第二は、明日のことを思い悩まず、今日を精一杯生きること。イエスは言われます。「明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」(34)。なんと慰め、励ましに満ちた言葉でしょうか。 第三は、「何よりもまず神の国と神の義を求めること」(33)。「神の国を求める」とは「神の支配を求める」「あなた自身を神が支配されるように求める」ことです。「神の義を求める」とは、「あなたが正しいと思う(自分の義)ことではなく、神が正しい思われること(神の正義)を求める」ということです。
人生における最優先の事柄とは、「何よりもまず神の国と神の義を求めること」なのです。
キリスト教信仰の四つの骨格といえば、「受肉」「復活」「昇天」「再臨」ですが、救いに関わる真理をどこまで深く理解しているでしょうか。どこまで事実として、受け止め、信じているでしょうか。
「主イエスの昇天」は不思議な出来事でした。マルコとルカの福音書だけが、主イエスは天に上げられたと記されています。弟子たちにとって、イエスさまが目の前で、次第に消えて行き、再び、この目で見ることはなくなるという別離、悲しみの時でもありました。また主イエスが十字架につけられ、死んで、葬られたときも、深い喪失感に襲われましたが、再びあの時の喪失感をもう一度味わうことになりました。
しかし弟子たちは、イエスが天に上げられたあと、大喜びでエルサレムに帰り、神殿の境内で、神をほめたたえていた(ルカ24:51)。すなわちひたすら礼拝をしていたのです。
主イエスの昇天が何をもたらしたのでしよう。第一は聖霊の約束でした。それは10日後のペンテコステの日に約束が成就しました。第二は再臨の約束でした。そして第三は、主は新しい存在の形に変わられたことです。それまでは主イエスは目に見えるお方、弟子たちの前に現れる主でした。昇天して見えなくなりましたが、その時からいつでも、どこにでも、だれにでも共におられる存在となられたのです。
私たちにとっても、主イエスは見えないお方であるがゆえに、私たちの全てを見て下さっています。
この世における主イエスの御業は、その誕生に始まり、昇天によって完成したのです。クリスマスが、主イエスの地上における御業の始まりの日であるならば、昇天日は、完成の日でした。そしてペンテコステの日から著しい聖霊の活躍が始まるのです。
2020年5月10日(日)「試練を耐え忍ぶ人は幸いです」(ヤコブ1:12-18)
ヤコブは「試練を耐え忍ぶ人は幸いです」と言う。どうして試練を耐え忍ぶ人が幸いなのでしょうか。
たとえば病気です。病気を通して、神の愛と真理がわかり、信仰的により強くされたなら、それは神の試練にほかなりません。一方で、病気によって、物事を否定的に考えるようになり、人をうらやみ、神がわからなくなるなら、それは悪魔の誘惑といえるかもしれません。病気だけでなく、およそ人生のつまずきとなるもの、失敗、失業、破綻、貧乏…などは試練ともなり、誘惑ともなるのです。
試練は、私たちを強めます。私たちを成長させます。私たちを神に近づけます。一方、誘惑は、私たちを弱めます。私たちを滅ぼします。誘惑は、私たちを神から遠ざけます。
ではどうすれば試練に耐えられるのでしょう。それは一に忍耐、二に忍耐、三に忍耐です。そして主イエスの助けが必要です。人生の勝利者とは、 試練に耐え、試練から学び、試練を通して成長する人ではないでしょうか。一方では、誘惑に対しては、逃げる、避けることです。誘惑の場で耐えたり、留まれば、必ず失敗します。
ヨブはすべての子どもを失い、すべての財産を失い、健康を失い、悲惨のどん底に至りました。しかし彼にとってのそれ以上の苦しみは、「神が見えない」ということでした。
新約時代に生きる私たちにとっての苦難の究極的な答えは「人となられたこの神、イエス・キリストを見なさい」ということではないでしょうか。